2013年6月30日日曜日

インターネットってこわいね

ぼくが勝手に思っているスタンドアローンコンプレックスの定義って、「一人でその考えに至ったように思ってるけど、実のところ世間に影響された結果だよね」と思ってます。
そんな SAC と仮定して、この状況って現代でも起こってるよね。

2ch まとめとか Twitter とか見てると、「ああ、そうそう、おれもそう思う」なんていうふうに思うことが多々あるけど、それって実はあんまり頭で考えた結果じゃなくて、なにかの出来事があって、誰かがそれをこう思うって言って、それをみて「そうそう」って思ってるだけ。
でもそういう細かい積み重ねがいつしか思考になっていく。
で、それはあたかも自分が前々から考えてきた結果だ、みたいに思って。
どこにも芯が通ってないのにさ。
皮肉なものよね。
哲学なんてこれっぽっちもない、自分の考えなんてこれっぽっちもない。

サウンド・バイトってのがあるけど、インターネットってそういうのばっかりだよね。
ブログタイトルとかさ、さいきんアホみたいにみかける「◯◯できる!5つのコト!」みたいなさ、5つのことクリアしたら◯◯できるみたいなタイトルとか多いよね。
刺激的な言葉を並べて発信者の世界に引きこむ、それで OK みたいな。

あと、インターネットって二極の考えがあるとして、だいたいどちらかのバイアスがかかっているよね。
そういうの、こわいって思う。
偏ってるってことは、もう一方のマイノリティの声はほとんど議論するに値しない状況に陥ってるってことだろうしさ。
たとえばさ、宿泊先を探そうと思うと、「安い」ものは簡単に探せるけど、「高い」ものって簡単には探せない。
「高い」ホテルを知らないと探せない感じ。

インターネットは便利だけど、こういうことは頭の片隅にでも意識しておきたいよね。
あーこわいこわい。
ICタグとかもちょーこわい。
おれの性癖とか知りたくないでしょ。

2013年6月29日土曜日

中庸であるということ

『細野晴臣 分福茶釜』細野晴臣 (平凡社ライブラリー)
これを読んで思ったことをつらつらと気長に述べていこうと思います。
まずは前書きの前書き?から。

ここで述べられていることは、細野さん自身がずっとぶれてるということを言っている。
世間的には「ぶれない」ほうがいいのだが、それは自然なことではない。
ぶれないとは普段細野さんは言わなくて、中庸という言い方をする。
中庸とはあっちにも行かずこっちにも行かず真ん中を歩くということじゃなくて、あっちとこっち、その両方を行かないと真ん中にならないよ、という教えなのかもしれない、と解釈しているみたいだ。
綱渡りで大事なのはぶれること。振り子も同じ。人間の観念もそう。
中庸っていうと、真ん中を静かに歩くみたいな、そういう動きのないものになっているけど、いくら安定を求めたって人は誰だって揺れてるんだよ。
言ってることと起こってることは違ってるんだ。

こう述べられている。

ぼくはこれを読んでいささか救われた気がした。
僕自身、中庸であるという自負を持ってはいるが、それは常に揺れ続けている。
左右に揺れているとしたら、左に大きく傾いている時期もあれば、そうではないときもある。
そういう自覚はあった。
それは果たして中庸なのかと、ただ中途半端でどっちつかずじゃないのか、なんて。
でもそれは、自分の属しているコミュニティ、時代、情勢、そういった背景の影響でぶれつづけるものだ。
いや、むしろぶれ続けないということは思考を諦めているということになりかねない。
それは嫌だ。

だから、ぶれてていいんだ、そう思えるこの文章に触れて救われたなって思った。

2013年1月13日日曜日

シガテラ感想


今更この年になってこれを読んでるのか、というつっこみもありそうだけれども、まあ良いじゃない。
この年だから共感できた部分も多いと思うんだ。
そして、最近ありきたりのファンタジーとかテンプレな感動させる系とか萌えとかハーレムとか、まあそのあたりも面白いし見るんだけれど、心にえぐるほど何かが来ない。
消費していく、という感じ。
子供の頃に絵本や文字が気に入って何度も何度も読み返したり、青春期に共感して何度も読書した近代小説のような、あの新しい世界への感動がこの漫画にはあった。
少なくとも私にとっては。

古谷実 シガテラ については Wiki にネタバレとともに書かれている。
以下もネタバレなのでご注意を。

私はこの漫画のどこが好きなのかというと、東京大学物語的な夢オチのそうきたか!って感じでもないけれども、南雲さんじゃない人と付き合うというハッピー?エンドが好きなんだね。
そうきたか!って思えてね。
このリアリティーは本当にすごい。
このエンドがあるから、青春のあの日々すべてが現在のオギボーにつながるんだと納得できる。
かわいい夢みたいな彼女南雲さんとお付き合いしてセックスして夢みたいな現実を過ごし、オギボーは変化していく。
自分を受け入れてくれる存在の出現。
ただ、オギボーの偉いところは次の言葉にある。

まず基本的に「自分は一人で生きていく」といじけ気味の強い覚悟を決める そのうえでもし、「一緒にいたい」といってくれる人がいたら 心から感謝して共に生きる

これはとてもすごい決意だと思う。
受け身なだけ、と避難する人もいるだろうけれど、それは本質的にそうなれない自分を認識したオギボーの出した結論なんだろう。
ただ、人に依存するだけの生き方ではない。
基本的には「自分は一人で生きていく」わけで、それでも「一緒にいたい」といってくれる人がいたら心から感謝して共に生きる、このあり方はとても共感できた。

シガテラとは、食中毒のことで、詳しい説明は Wiki にある通りなんだけれども、オギボーは自分が生きている(それをエゴともいうが生きていることは少なからずエゴである)ことで、不幸が周りに訪れる、これがこの漫画の直接的に意図する意味合いである。

この自分への猜疑心、窮屈感、不安がオギボーの根本にはあったのだけれども、南雲さんや高井、その他青春期に出会った様々なものの経験を通して今後の自分のあり方を形成していく。
それが上述のあり方なんだけれも、この自分の存在を否定していた少年が、自分の存在を肯定しこう生きていこうと決めるに至る過程がわたしはとても好きだ。

そして、最終話では南雲さんと4年前に別れたこと、今の彼女と2年間お付き合いをしていること、南雲さんは他の誰かと結婚し妊娠していること、そして、オギボーは立派な大人でつまらない奴になった(と自分で称する)ことが明かされる。
この最終話への落とし方がとても好きだ。
この間には時間的にも6年強の開きがある。
(オギボー高3の18歳から24〜25歳くらいの社会人)

なぜ南雲さんと別れることになったのか?
作品中では南雲さんを不幸にするようなことがあれば別れると言っていたが、本当にそれだけだったのだろうか。
あんなに仲睦まじい二人だったが、青春期の儚い将来の誓いは、私自身含めて(笑)とても共感できた。
時間というものは、そういうものなのだろうな。

また、最終話でオギボーは妊婦を凝視しているような描写があったが、あのとき何を思っていたのか。
やはり南雲さんを不幸にするようなことがあって、それのせいで別れたのか?と邪推してしまうが、南雲さんはだからといって別れるような人でもないと思う。
じゃああのシーンはいったいなんなのだろう。
それにオギボーも南雲さんへの思いがあるのならば、新しい彼女を作るような人ではないと思う。
じゃああのとき、妊婦を見ながら見ていたもの、思っていたものはなんなのだろうか。
何もなく、ただぼぉーっと見ていただけなのだろうか。

こんなわけで、僕はシガテラは近年消費したものの中で一番心がグッと来た作品だった。
ぜひ読んでみてください。
それでは。


この感想もよかった。
書き損なったけど、「普通」とはなんだろうね。
劣等感、圧倒的な異常な環境、天賦の才能のなさ、そんな人間が望む普通。
その立派な大人でつまらない奴になるということの意味、稲中で部長武田がいっていた「普通」、ヒミズの住田が望んだ「普通」。
本当に多くのことを考えさせられる作品だよ。

2012年8月12日日曜日

お盆

なんとなくで理解している「お盆」ですが、実は言葉の歴史は複雑なもののようです。

仏教が日本になかった頃、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があり、この初秋の行事が仏教の盂蘭盆会と集合して一般的な「お盆」になったそうです。
盂蘭盆会も仏教的な意味で、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事です。

兎角、そのような難しいものを除いて単純に祖霊を迎え入れ祀る、その気持ちをもつ機会として私はお盆を捉えるようにしよと思うようになりました。
私にはなかなか祖霊(祖先)へ思いを巡らせることがなく、なんとなく自分が生きていると思っていました。
でも、両親や祖母祖父のことを考えていると、自分はなんと傲慢な考えで漠然と日々を過ごしていたのだろうと思うようになりました。
それもあって、正月や盆というものを一つの機会として捉えるようにし、盆は祖先について思いを巡らせるようにしようと思いました。
本当であれば故郷へ帰り、祖先の眠るお墓の掃除をし父母と父母自身のこと、自分の家のことを話す機会にしたかったのですが、仕事柄、この時期に故郷へ帰ることができませんでした。
王維「九月九日憶山東兄弟」の如く、一人故郷とは違うこの地でこの地に住まう人々の盆踊りを
見るともな見ながら遠き故郷の地の家族と祖先を思いながら一人ぼんやりとこの地で過ごしています。

そんなふうに思うなか、自分のことをふと考えます。
自分は、自分のことを直接的に認識している近親の者以外にも、祖先の子供たちへの思い、
そしてなによりも父母の思いを蔑ろにしてきた人生だったな、と思い後悔することがあります。
なので、せめて今自分が関わることのできる家族とはきちんと話をしたい、そう思えるようになりました。

私は、格別の信仰心を持っているわけではないため、
こういうものは普段できないことをするために一つの良い機会として捉えるようにしていきたいな、と思います。


2012年6月9日土曜日

ひよこの眼の感想


山田詠美の短篇集『晩年の子供』に掲載されているひよこの眼、私は学校の教科書で読んだのが初めてだった。確か中学生の時だったように思う。

自分の中でなぜこの短編が印象に残っているのか不思議だった。この作品は青春真っ盛りの中学生には素直におすすめできるものではないと思う。これを教科書に掲載したことが驚きだ。

閑話休題、この作品は淡い恋心と死を見つめる眼との対比が主となっている。主人公の女の子は転校生が気になるのだが、ただ淡い恋心だけではなく以前に見たことが懐かしさを覚える眼を、その転校生がしていたことが気になっていた。実はこの眼は以前に飼っていたひよこが死ぬ直前にしていた死を見つめている眼と同じであることが作品の最後で語られる。転校生は無理心中に巻き込まれる。

この作品では自殺の理由はマクガフィンでしかない。それよりも彼が作中で最初ただただ死を見つめていたこと、しかし主人公との関係の中で確かに生きようとしたこと、これが最も重要なことだと思う。確かに生きようとした人間が不条理により生きることができなくなった、そんな彼との淡いひとときを描くこの作品は短絡的なハッピーエンドではない現実感あふれる作品だと思う。