2012年8月12日日曜日

お盆

なんとなくで理解している「お盆」ですが、実は言葉の歴史は複雑なもののようです。

仏教が日本になかった頃、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があり、この初秋の行事が仏教の盂蘭盆会と集合して一般的な「お盆」になったそうです。
盂蘭盆会も仏教的な意味で、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事です。

兎角、そのような難しいものを除いて単純に祖霊を迎え入れ祀る、その気持ちをもつ機会として私はお盆を捉えるようにしよと思うようになりました。
私にはなかなか祖霊(祖先)へ思いを巡らせることがなく、なんとなく自分が生きていると思っていました。
でも、両親や祖母祖父のことを考えていると、自分はなんと傲慢な考えで漠然と日々を過ごしていたのだろうと思うようになりました。
それもあって、正月や盆というものを一つの機会として捉えるようにし、盆は祖先について思いを巡らせるようにしようと思いました。
本当であれば故郷へ帰り、祖先の眠るお墓の掃除をし父母と父母自身のこと、自分の家のことを話す機会にしたかったのですが、仕事柄、この時期に故郷へ帰ることができませんでした。
王維「九月九日憶山東兄弟」の如く、一人故郷とは違うこの地でこの地に住まう人々の盆踊りを
見るともな見ながら遠き故郷の地の家族と祖先を思いながら一人ぼんやりとこの地で過ごしています。

そんなふうに思うなか、自分のことをふと考えます。
自分は、自分のことを直接的に認識している近親の者以外にも、祖先の子供たちへの思い、
そしてなによりも父母の思いを蔑ろにしてきた人生だったな、と思い後悔することがあります。
なので、せめて今自分が関わることのできる家族とはきちんと話をしたい、そう思えるようになりました。

私は、格別の信仰心を持っているわけではないため、
こういうものは普段できないことをするために一つの良い機会として捉えるようにしていきたいな、と思います。


2012年6月9日土曜日

ひよこの眼の感想


山田詠美の短篇集『晩年の子供』に掲載されているひよこの眼、私は学校の教科書で読んだのが初めてだった。確か中学生の時だったように思う。

自分の中でなぜこの短編が印象に残っているのか不思議だった。この作品は青春真っ盛りの中学生には素直におすすめできるものではないと思う。これを教科書に掲載したことが驚きだ。

閑話休題、この作品は淡い恋心と死を見つめる眼との対比が主となっている。主人公の女の子は転校生が気になるのだが、ただ淡い恋心だけではなく以前に見たことが懐かしさを覚える眼を、その転校生がしていたことが気になっていた。実はこの眼は以前に飼っていたひよこが死ぬ直前にしていた死を見つめている眼と同じであることが作品の最後で語られる。転校生は無理心中に巻き込まれる。

この作品では自殺の理由はマクガフィンでしかない。それよりも彼が作中で最初ただただ死を見つめていたこと、しかし主人公との関係の中で確かに生きようとしたこと、これが最も重要なことだと思う。確かに生きようとした人間が不条理により生きることができなくなった、そんな彼との淡いひとときを描くこの作品は短絡的なハッピーエンドではない現実感あふれる作品だと思う。