2013年7月21日日曜日

しずんだところでまたしずむ

でも、そこ底辺だから(笑)
もう沈めませんでした。

なんか不謹慎だけれどさ、祖母が死んだ時、それを目の当たりにしたときはそれほど悲しくはなかったの。
自分でも、あれ、こんなものか、って思ってた。
でも次第に時間がたってそこに祖母がいないんだなって思うようになると、
夢で見たり、ふと独り考え事している時に浮かんできて、
色々考えちゃって悲しくなるんだよね。

なんかそういう感覚と今の状況は似ている気がする。

今日は楽しい日、なんてのたまっていましたが、なに、何も楽しくはなかったです。
むしろ、悲しくて寂しくて切なくてたまらなくなったね。
ぜんぜんいいことなんてなかった。

でもね、あんまり悲しくないんです。

ああ、やっぱりそうか、なんてね。
わかってたよそうなることって感じ。
予期していた、から?
心が準備してたから?
でも、やっぱりたぶんきっとつらくなってくるはず。
その悲しみの大元を実感することがあるたびに悲しい気持ちになるはず。

まあでもさ、そういうときはシューゲを聴くのさ。
優しい音の海に浸ってさ、心の赴くままに心をむけてやる。
心の行き先に抗わない。
だってそれはもう変えようのない圧倒的な現実なのだから、受け入れるしかない。
だから、その悲しみを飲み込むために心のままに。

そりゃまあさ、そういう現実を変えようとするバイタリティ溢れる人もいるかもしれない。
でも自分はそうじゃない、そういう自分でいいと思っている。
だからまあ、ゆっくりと悲しみをかみくだいていく。
そうやって、少しずつ強くなれるといいな。


2013年7月19日金曜日

しずむしずむ

今日はダメだ。。。
こころが沈む。
まったく回復しない。
こういうときは逆らわずにあるがままにまかせるに限る。

自分が望む未来があって、そうはならいない現実があって、どうしようもなくて。
こんなにも虚しいものはない。
なにも変えられない自分を改めて知って、それでもやっぱり変わらない。

虚ろ。
憂き世の悲しみせつなみ飲み込んで、吐き出して。
虚無で孤独。
これが本質に近しいから辛い。

2013年7月18日木曜日

コミュニケーションまいご

人が悩んでて、凹みまくってて、その悩み主から頼られるわけでもないからほっておいたらさ、横から知らん人でてきてその人が悩み主の話しをきいてあげて主は気持ちが持ち直したのね。
その一幕を見てさ、おれコミュニケーションできねーわ!って思った。
うん、むり。
そもそも「がんばれっ」とかって無責任なことあんまり言いたくないし、頼られるような人間でもきっとねーだろうし、じっさいに頼られたわけでもないからさ、自分からそこに積極的に関わることができない。
いや、それって巡り巡って自分がさ、そういうことになったとき、おれは人に悩みを打ち明けられないし、実利的なことがない限り頼ったりお願いしたりもしないと思う(もちろん感謝とお礼の気持は忘れないよ)。
基本的には一人で、独り?で解決する。
時間が解決したり他のことやって距離おいたり俯瞰したり、まあいろいろだけどさ、なんかだいたい解決する。
だから、自分にはそういう感覚や経験がそもそもないからさ、おれはああいうことはできないしこれからもできるようにはならないだろうな。
で、コミュニケーションできねーわおれ、って思ったわけ。
まあそういうたぐいの人の気持ちはさ、わからんわけではないんだけれどさ、たぶんきっとほんとに理解してあげることはずっとできんだろうなって思った。

2013年7月17日水曜日

なんとなくで生けていけないので

なんとなく、ギリギリでも生きていければいいんだけれども、そういうわけにはいかなくて。
さいきん、節目が近くなって焦りばかりが大きくなって何一つ行動にできていなくて焦燥にかりたてられる。
で、結局なにもできないまま無駄に時間を過ごして焦るという悪循環。
こんなんじゃダメだと思いながらなにもできない最悪のダメさ加減。
焦る。

2013年7月13日土曜日

いつまでもおなじままでいられないから・・・

両親と僕の三人で、お話をしながら京都を散策してきました。

あまり考えたくはないし、そんな話をしたくないのですが、僕は両親が死んだときのこと、親戚や近所に対してやらなければならないこと(小さい家でも家をつがねばなりませんから)、そして財産のことお金のこと土地のこと、そんなことを話しました。
僕の勝手な考えの押し付けかもしれませんが、両親はもう定年を越した年齢となり、決して先が長いとは言えない思っています。
そういう年にある人のやるべきことは精神的なところでの死への準備だと思っていて、そんな両親を持っている僕のような若い世代のやるべきことは親への孝行をいかに行って親に精神的な安堵と幸せを贈ることができるかだと思っています。
僕はそれがひとつの親子のコミュニケーションだと考えています。
いつまでも同じ幸せな日々を繰り返す家族、、、弟二人がいて、両親がいて、ばあちゃんがいる、ペットがいる、何気ない日常で喧嘩もしながらそれでも同じ食卓でご飯を食べる、そんな日々を過ごし続けられるならばこんなことをいう必要はないのです。
いつまでも同じ幸せなままでいられないから、僕らは準備をしなければいけない。
でもそれは、ネガティブなばかりじゃないよ、とうぜん。
これからの未来や明るいニュースも踏まえてさ、いかにあるべきかをお話した。
そして、僕が社会人となって一人ある程度ご飯を食べていけるようになって次第に染みわたるようにわかってくる父親の偉大さ、母親のありがたさ。
どんだけむかつく子どもであったか、それでも諦めず投げ出さずここまで育ててくれた、それでなおこうやってたまに顔を見に来てくれるありがたさ。
両親に深く感謝をしていることを伝えた。
なかなかそういうの言えなくてさ。

こうやって両親とあとどれだけの時間を過ごせるかわからない。
たとえぼくたちの人生の選択がたいてい絶望と諦めの「されどなお」でできているとしても、されどなお、僕はこうやってきっと喧嘩もするけれど両親と同じ時間を少しでも多く過ごしたいと思うのです。
一人で生まれたわけじゃない、一人で成長したわけじゃない、両親のおかげ。
幸せですね。

2013年7月12日金曜日

オリジナルの体験とコピーの体験

アウラという概念があってこれがとてもおもしろい。

[アウラとは - はてなキーワード](http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A6%A5%E9)

つまり、その対象作品が持ってるオリジナリティ故に放たれるオーラのこと。
当然、このオーラを人も感じとるよね。

ぼくはこの「アウラ」を感じることができるものってたいてい面白いって思う。
どこをみたってステレオタイプなコピーがはびこるこの世の中でそういうオリジナリティをみつける喜びはなんとも言えない。
それは世界が知らないこれからのものでも、自分が知らない昔のものでも、ね。
最近、そういう感覚に自覚的であるようになった。

で、またこんな記事もある。

[一日の時間をより長く感じるための5つの方法 - GIGAZINE](http://gigazine.net/news/20130703-5things-to-make-a-day-longer/)

子どもの頃というのは、歳をとった今よりも時間がもう少し長かったように感じていたような気がする。
感覚でしかないけれども、多分、誰しも少しはそういう感覚はあるんじゃないかな。
歳をとった今、日常としてやっていることも、「アウラ」を感じることができて自分にとって新しくて刺激的な出来事として体を通り抜けていたんだと思う。
それを繰り返しているうちに、かつてオリジナルだったアウラを感じる経験がコピーとなって「アウラ」を感じえなくなってきた、のだろうなって思うのです。

でも、新しいことというのは尽きていくもの。
そういうことを指向することはやり続けていくけれども、「足るを知る者は富む」ということも意識しておかないとね。
むずかしいな。

2013年7月11日木曜日

人と接するということ

『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』波戸岡景太 講談社現代新書
『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』東浩紀 講談社現代新書

どっち読んでも書いているのは、今時の子たちのコミュニケーションってのは、点と点、趣味と趣味になっているってこと。
要は、気が合うやつ。

むかしってさ、おれは当然知らんけども、国家とかそういう大きいイデオロギーがあって、そのイデオロギーはひとつのメルクマールだったんだと思うんだ。
そのなかで、いろんな、それこそ気が合わないやつとも絡みながら何かをやろうとしていた時代があったんじゃないかなって。
それがおれの知らないおれが勝手に妄想するむかし。

でもさ、今おれがさ、新しく出会った人とコミュニケーションをとろうと思うと、趣味以外話すことないのね。
近頃さーとかいう距離感でもないし、毎日日常を共有する人でもないし。
そういう意味で点と点でしか人と人とが存在し得ない。
これね、ラノベの中の・・・で『変態王子と笑わない猫。』がそういうこと言ってると指摘していた話だし、動物化する・・・でもオタクのコミュニケーションの大部分が情報交換であると指摘している話からも、リアリティあることだと思うんだよね、点と点のコミュニケーション。
オタクの趣味なんてほんとに「自分がいかに楽しめるか」という自分自身に強烈にベクトルがむいてるし、それを人と共感する、情報交換する、そういうコミュニケーションになるのはもう必然っていうかさ。

んなわけで、コミュニケーションというものが最近わかりません。
細野晴臣も言ってたけど、人は本質的に孤独。
土曜日の夜に一人で暇してて、あー、おれ、孤独だなって思うアレ。
なんかもーどうでもよくなっちゃうよね、コミュニケーション。

2013年7月9日火曜日

紅茶のなまえ

中国語でならべるとなんかその漢字の並びが好きだな。
中国語での意味や発音はわかんないけど。

レッドベリーズ     / 紅苺
アールグレイ        / 公爵茶
カモミール           / 野菊花
ルイボス バニラ    / 如意博士 香草茶
ジャスミンティー  / 茉莉花茶

なんかさ

わりと感情が日によって上下するというか、心がぴしゃっと閉じている日と開いている日があるんですよね。
バイオリズムみたいなものっていうか。
なんか漠然と前からそういうのがあるなあとは思っていたけれど、それによってどうこうってあまり自覚的に考えたことがなかったんだ。

で、ふと思ったのがさ、むかし、教習所で雨の日とか疲れている日の車の運転は普段よりもゆっくり走って気をつけようって言ってたのを急に思い出して、あ、人間関係も同じ事だったんだ、みたいなさ。
いまさらかよ!って感じだけどね、いまさらながらそう考えたんだ。

朝、会社いっていちばんはじめはさ、ぼくブチ切れぎみでいっちゃったのね。
なんか言われたら、知らねーよ、みたいなかんじで。

だからそのあとはちょっと人と距離をとったり、意見を求められてたりしたときに一呼吸置くことを意識的にやったの。
これがね、わりとよくって。
あ、自分の感情を意識的にコントロールするのってこういうことか、これ大事だなってそういう感覚わいてきたの。

あとムカツイたりイライラして気になったりすると一服しにいくの、サボリ気味で。
でもこれがいい。
くっそあっついなか、一服してると距離をもてるというね。

つまるところ、自分の精神的なところに意識的にあって、その心のベクトルにあわせて一日の振舞い方を考えようと思いましたってはなし。


2013年7月7日日曜日

ふらっと

京都へ行って来ました。
懐かしいです。

学生時代からセレクトしているレコードが好みすぎて通っていたレコードショップ、
まだ営業はしているんだけれど、もうほとんど倉庫みたいになってた。
通販サイトもやってて、そっちが主流になってるんだろうな。

ぼくは試聴機の前で、まだ知らないピックアップされているアーティストのCDをゆっくり視聴して、好きだ嫌いだの勢いでCD買うのが好きだった。
今それをやろうと思うとちょっとやりにくい(^_^;)
タワレコやHMVみたいに大型店舗ならまだしも、レコードショップってだいたい個人店だし。
なんかそういう空気がもうなくなっていたんだよね。
ゆっくり聴いてくれ、みたいなさ。WEB ですかそうですか、みたいな。

別にこの流れそのものにどうこういうつもりはこれっぽっちもない。
そういう流れなんだったら、その流れに従うだけ。
失われたものに自覚的でありながらね。

2013年7月1日月曜日

ぶらり

Ghar でカレーランチ。



ビーフカレーにしました。
これが絶妙に美味しい!
一口もらったラムキーマカレーも美味しかった。

そいで、NEPENTHES へ。

おいてるものがオサレの極みです。
インテリアまで。
かっこいいシャツを一緒に行ってた人が購入。
アイスティーくれました!
これがまた絶妙に美味しいんだよ。
ジンジャーが効きつつ、ミントと紅茶の良い香りがする絶妙アイスティー。
いやー、これだけでもお店出来ますね絶対。

そんで、SORA 堀江店へ。
買っちゃいましたね、Tシャツ。
セールだし。
バックプリントが活かします。
parana ってブランドで、1993年にカリフォルニア州カールスバッドでできたブランドみたい。
エコな感じで頑張ってるアースカラーなブランドなんかな。
あと雨降ってたので tote のちっちゃい折り畳み傘かった。
でも買うとすぐにやんでその後降ることはなかったというね・・・。

SORA の隣で MEDICOM TOY のお店あったので見に行ってみる。
かわいいキューブリックがいっぱい♡
併設されているカフェでクラッシクコーヒー飲みました。
あったか美味しい!

次に slow へ。
インセンスケースもなかなか良いのありました〜。
カードケース探してたのでカードケース購入。


し、渋いぜ・・・。

それから、大阪農林会館へ。
シャングリラがサレオツです。
ストラトはステキなシャツで溢れかえっておりました。
しかもセール!
いやーいくつも欲しいのありましたがちょっと我慢しちゃいました。
ウォールズ・アンド・ブリッジは人混みこみだったので入れず・・・。

もういっちょ SORA 南船場店を回りつつ、
東急ハンズで今はもう動かないぼくの腕時計を直してもらう。
NIXON と TIMEX 動くようになりました!
やったぁぁぁ!

DOORS 南船場店 に行きつつ、public へ。
いいものおいてる・・・。
素敵すぎてどれもこれもほしい。

protocol でくつした買いました。
rasox 履き心地ばつぐん!

そこからダーウメへ。
モンベル行ってランタン購入。

ちょっと思ってたよりも光量少なかった(^_^;)
そして炎の上空が超熱くなる。。。
ランタン持つところも含めて・・・。
置き場所考えてなかったけれど、場所選ぶね。。。

そいでそいで晩御飯。
富山の白海老の刺身と唐揚げがめちゃ美味しいのですよ・・・。
たまりやせん。



2013年6月30日日曜日

インターネットってこわいね

ぼくが勝手に思っているスタンドアローンコンプレックスの定義って、「一人でその考えに至ったように思ってるけど、実のところ世間に影響された結果だよね」と思ってます。
そんな SAC と仮定して、この状況って現代でも起こってるよね。

2ch まとめとか Twitter とか見てると、「ああ、そうそう、おれもそう思う」なんていうふうに思うことが多々あるけど、それって実はあんまり頭で考えた結果じゃなくて、なにかの出来事があって、誰かがそれをこう思うって言って、それをみて「そうそう」って思ってるだけ。
でもそういう細かい積み重ねがいつしか思考になっていく。
で、それはあたかも自分が前々から考えてきた結果だ、みたいに思って。
どこにも芯が通ってないのにさ。
皮肉なものよね。
哲学なんてこれっぽっちもない、自分の考えなんてこれっぽっちもない。

サウンド・バイトってのがあるけど、インターネットってそういうのばっかりだよね。
ブログタイトルとかさ、さいきんアホみたいにみかける「◯◯できる!5つのコト!」みたいなさ、5つのことクリアしたら◯◯できるみたいなタイトルとか多いよね。
刺激的な言葉を並べて発信者の世界に引きこむ、それで OK みたいな。

あと、インターネットって二極の考えがあるとして、だいたいどちらかのバイアスがかかっているよね。
そういうの、こわいって思う。
偏ってるってことは、もう一方のマイノリティの声はほとんど議論するに値しない状況に陥ってるってことだろうしさ。
たとえばさ、宿泊先を探そうと思うと、「安い」ものは簡単に探せるけど、「高い」ものって簡単には探せない。
「高い」ホテルを知らないと探せない感じ。

インターネットは便利だけど、こういうことは頭の片隅にでも意識しておきたいよね。
あーこわいこわい。
ICタグとかもちょーこわい。
おれの性癖とか知りたくないでしょ。

2013年6月29日土曜日

中庸であるということ

『細野晴臣 分福茶釜』細野晴臣 (平凡社ライブラリー)
これを読んで思ったことをつらつらと気長に述べていこうと思います。
まずは前書きの前書き?から。

ここで述べられていることは、細野さん自身がずっとぶれてるということを言っている。
世間的には「ぶれない」ほうがいいのだが、それは自然なことではない。
ぶれないとは普段細野さんは言わなくて、中庸という言い方をする。
中庸とはあっちにも行かずこっちにも行かず真ん中を歩くということじゃなくて、あっちとこっち、その両方を行かないと真ん中にならないよ、という教えなのかもしれない、と解釈しているみたいだ。
綱渡りで大事なのはぶれること。振り子も同じ。人間の観念もそう。
中庸っていうと、真ん中を静かに歩くみたいな、そういう動きのないものになっているけど、いくら安定を求めたって人は誰だって揺れてるんだよ。
言ってることと起こってることは違ってるんだ。

こう述べられている。

ぼくはこれを読んでいささか救われた気がした。
僕自身、中庸であるという自負を持ってはいるが、それは常に揺れ続けている。
左右に揺れているとしたら、左に大きく傾いている時期もあれば、そうではないときもある。
そういう自覚はあった。
それは果たして中庸なのかと、ただ中途半端でどっちつかずじゃないのか、なんて。
でもそれは、自分の属しているコミュニティ、時代、情勢、そういった背景の影響でぶれつづけるものだ。
いや、むしろぶれ続けないということは思考を諦めているということになりかねない。
それは嫌だ。

だから、ぶれてていいんだ、そう思えるこの文章に触れて救われたなって思った。

2013年1月13日日曜日

シガテラ感想


今更この年になってこれを読んでるのか、というつっこみもありそうだけれども、まあ良いじゃない。
この年だから共感できた部分も多いと思うんだ。
そして、最近ありきたりのファンタジーとかテンプレな感動させる系とか萌えとかハーレムとか、まあそのあたりも面白いし見るんだけれど、心にえぐるほど何かが来ない。
消費していく、という感じ。
子供の頃に絵本や文字が気に入って何度も何度も読み返したり、青春期に共感して何度も読書した近代小説のような、あの新しい世界への感動がこの漫画にはあった。
少なくとも私にとっては。

古谷実 シガテラ については Wiki にネタバレとともに書かれている。
以下もネタバレなのでご注意を。

私はこの漫画のどこが好きなのかというと、東京大学物語的な夢オチのそうきたか!って感じでもないけれども、南雲さんじゃない人と付き合うというハッピー?エンドが好きなんだね。
そうきたか!って思えてね。
このリアリティーは本当にすごい。
このエンドがあるから、青春のあの日々すべてが現在のオギボーにつながるんだと納得できる。
かわいい夢みたいな彼女南雲さんとお付き合いしてセックスして夢みたいな現実を過ごし、オギボーは変化していく。
自分を受け入れてくれる存在の出現。
ただ、オギボーの偉いところは次の言葉にある。

まず基本的に「自分は一人で生きていく」といじけ気味の強い覚悟を決める そのうえでもし、「一緒にいたい」といってくれる人がいたら 心から感謝して共に生きる

これはとてもすごい決意だと思う。
受け身なだけ、と避難する人もいるだろうけれど、それは本質的にそうなれない自分を認識したオギボーの出した結論なんだろう。
ただ、人に依存するだけの生き方ではない。
基本的には「自分は一人で生きていく」わけで、それでも「一緒にいたい」といってくれる人がいたら心から感謝して共に生きる、このあり方はとても共感できた。

シガテラとは、食中毒のことで、詳しい説明は Wiki にある通りなんだけれども、オギボーは自分が生きている(それをエゴともいうが生きていることは少なからずエゴである)ことで、不幸が周りに訪れる、これがこの漫画の直接的に意図する意味合いである。

この自分への猜疑心、窮屈感、不安がオギボーの根本にはあったのだけれども、南雲さんや高井、その他青春期に出会った様々なものの経験を通して今後の自分のあり方を形成していく。
それが上述のあり方なんだけれも、この自分の存在を否定していた少年が、自分の存在を肯定しこう生きていこうと決めるに至る過程がわたしはとても好きだ。

そして、最終話では南雲さんと4年前に別れたこと、今の彼女と2年間お付き合いをしていること、南雲さんは他の誰かと結婚し妊娠していること、そして、オギボーは立派な大人でつまらない奴になった(と自分で称する)ことが明かされる。
この最終話への落とし方がとても好きだ。
この間には時間的にも6年強の開きがある。
(オギボー高3の18歳から24〜25歳くらいの社会人)

なぜ南雲さんと別れることになったのか?
作品中では南雲さんを不幸にするようなことがあれば別れると言っていたが、本当にそれだけだったのだろうか。
あんなに仲睦まじい二人だったが、青春期の儚い将来の誓いは、私自身含めて(笑)とても共感できた。
時間というものは、そういうものなのだろうな。

また、最終話でオギボーは妊婦を凝視しているような描写があったが、あのとき何を思っていたのか。
やはり南雲さんを不幸にするようなことがあって、それのせいで別れたのか?と邪推してしまうが、南雲さんはだからといって別れるような人でもないと思う。
じゃああのシーンはいったいなんなのだろう。
それにオギボーも南雲さんへの思いがあるのならば、新しい彼女を作るような人ではないと思う。
じゃああのとき、妊婦を見ながら見ていたもの、思っていたものはなんなのだろうか。
何もなく、ただぼぉーっと見ていただけなのだろうか。

こんなわけで、僕はシガテラは近年消費したものの中で一番心がグッと来た作品だった。
ぜひ読んでみてください。
それでは。


この感想もよかった。
書き損なったけど、「普通」とはなんだろうね。
劣等感、圧倒的な異常な環境、天賦の才能のなさ、そんな人間が望む普通。
その立派な大人でつまらない奴になるということの意味、稲中で部長武田がいっていた「普通」、ヒミズの住田が望んだ「普通」。
本当に多くのことを考えさせられる作品だよ。