2013年6月29日土曜日

中庸であるということ

『細野晴臣 分福茶釜』細野晴臣 (平凡社ライブラリー)
これを読んで思ったことをつらつらと気長に述べていこうと思います。
まずは前書きの前書き?から。

ここで述べられていることは、細野さん自身がずっとぶれてるということを言っている。
世間的には「ぶれない」ほうがいいのだが、それは自然なことではない。
ぶれないとは普段細野さんは言わなくて、中庸という言い方をする。
中庸とはあっちにも行かずこっちにも行かず真ん中を歩くということじゃなくて、あっちとこっち、その両方を行かないと真ん中にならないよ、という教えなのかもしれない、と解釈しているみたいだ。
綱渡りで大事なのはぶれること。振り子も同じ。人間の観念もそう。
中庸っていうと、真ん中を静かに歩くみたいな、そういう動きのないものになっているけど、いくら安定を求めたって人は誰だって揺れてるんだよ。
言ってることと起こってることは違ってるんだ。

こう述べられている。

ぼくはこれを読んでいささか救われた気がした。
僕自身、中庸であるという自負を持ってはいるが、それは常に揺れ続けている。
左右に揺れているとしたら、左に大きく傾いている時期もあれば、そうではないときもある。
そういう自覚はあった。
それは果たして中庸なのかと、ただ中途半端でどっちつかずじゃないのか、なんて。
でもそれは、自分の属しているコミュニティ、時代、情勢、そういった背景の影響でぶれつづけるものだ。
いや、むしろぶれ続けないということは思考を諦めているということになりかねない。
それは嫌だ。

だから、ぶれてていいんだ、そう思えるこの文章に触れて救われたなって思った。

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