2013年1月13日日曜日

シガテラ感想


今更この年になってこれを読んでるのか、というつっこみもありそうだけれども、まあ良いじゃない。
この年だから共感できた部分も多いと思うんだ。
そして、最近ありきたりのファンタジーとかテンプレな感動させる系とか萌えとかハーレムとか、まあそのあたりも面白いし見るんだけれど、心にえぐるほど何かが来ない。
消費していく、という感じ。
子供の頃に絵本や文字が気に入って何度も何度も読み返したり、青春期に共感して何度も読書した近代小説のような、あの新しい世界への感動がこの漫画にはあった。
少なくとも私にとっては。

古谷実 シガテラ については Wiki にネタバレとともに書かれている。
以下もネタバレなのでご注意を。

私はこの漫画のどこが好きなのかというと、東京大学物語的な夢オチのそうきたか!って感じでもないけれども、南雲さんじゃない人と付き合うというハッピー?エンドが好きなんだね。
そうきたか!って思えてね。
このリアリティーは本当にすごい。
このエンドがあるから、青春のあの日々すべてが現在のオギボーにつながるんだと納得できる。
かわいい夢みたいな彼女南雲さんとお付き合いしてセックスして夢みたいな現実を過ごし、オギボーは変化していく。
自分を受け入れてくれる存在の出現。
ただ、オギボーの偉いところは次の言葉にある。

まず基本的に「自分は一人で生きていく」といじけ気味の強い覚悟を決める そのうえでもし、「一緒にいたい」といってくれる人がいたら 心から感謝して共に生きる

これはとてもすごい決意だと思う。
受け身なだけ、と避難する人もいるだろうけれど、それは本質的にそうなれない自分を認識したオギボーの出した結論なんだろう。
ただ、人に依存するだけの生き方ではない。
基本的には「自分は一人で生きていく」わけで、それでも「一緒にいたい」といってくれる人がいたら心から感謝して共に生きる、このあり方はとても共感できた。

シガテラとは、食中毒のことで、詳しい説明は Wiki にある通りなんだけれども、オギボーは自分が生きている(それをエゴともいうが生きていることは少なからずエゴである)ことで、不幸が周りに訪れる、これがこの漫画の直接的に意図する意味合いである。

この自分への猜疑心、窮屈感、不安がオギボーの根本にはあったのだけれども、南雲さんや高井、その他青春期に出会った様々なものの経験を通して今後の自分のあり方を形成していく。
それが上述のあり方なんだけれも、この自分の存在を否定していた少年が、自分の存在を肯定しこう生きていこうと決めるに至る過程がわたしはとても好きだ。

そして、最終話では南雲さんと4年前に別れたこと、今の彼女と2年間お付き合いをしていること、南雲さんは他の誰かと結婚し妊娠していること、そして、オギボーは立派な大人でつまらない奴になった(と自分で称する)ことが明かされる。
この最終話への落とし方がとても好きだ。
この間には時間的にも6年強の開きがある。
(オギボー高3の18歳から24〜25歳くらいの社会人)

なぜ南雲さんと別れることになったのか?
作品中では南雲さんを不幸にするようなことがあれば別れると言っていたが、本当にそれだけだったのだろうか。
あんなに仲睦まじい二人だったが、青春期の儚い将来の誓いは、私自身含めて(笑)とても共感できた。
時間というものは、そういうものなのだろうな。

また、最終話でオギボーは妊婦を凝視しているような描写があったが、あのとき何を思っていたのか。
やはり南雲さんを不幸にするようなことがあって、それのせいで別れたのか?と邪推してしまうが、南雲さんはだからといって別れるような人でもないと思う。
じゃああのシーンはいったいなんなのだろう。
それにオギボーも南雲さんへの思いがあるのならば、新しい彼女を作るような人ではないと思う。
じゃああのとき、妊婦を見ながら見ていたもの、思っていたものはなんなのだろうか。
何もなく、ただぼぉーっと見ていただけなのだろうか。

こんなわけで、僕はシガテラは近年消費したものの中で一番心がグッと来た作品だった。
ぜひ読んでみてください。
それでは。


この感想もよかった。
書き損なったけど、「普通」とはなんだろうね。
劣等感、圧倒的な異常な環境、天賦の才能のなさ、そんな人間が望む普通。
その立派な大人でつまらない奴になるということの意味、稲中で部長武田がいっていた「普通」、ヒミズの住田が望んだ「普通」。
本当に多くのことを考えさせられる作品だよ。